妙好人浅原才市の「書くこと」をめぐって 黒崎 浩行 1. 妙好人というカテゴリーをめぐる問題 真宗教団では、近世末期から現代にかけて、 在俗の篤信者をとりあげた伝記や言 行録の編纂・刊行が盛んに行われた。 それら一連の編纂類は、 その最初のものが 『妙好人伝』(初篇は仰誓撰。 僧純により天保13年(1842)に板行された)と名づけら れていたことから「妙好人伝」と総称されている。「妙好人」の語は、 元来は念仏 者にたいする褒称だったが、 妙好人伝の編纂とその受容を通じてそれは特定の人格 的カテゴリーへと形づくられてきた。それはどんなものだっただろうか。 まず、 妙好人は崇拝の対象ではなく、 法の実践者として賞賛の対象、 信者の模 範、 もしくは受け手自らの念仏の助縁として紹介されるにとどまるという、教団教 学レベルでの外的な規制におおわれてきたことを踏まえておく必要がある。 このこ とは、 1943年、鈴木大拙が『日本的霊性』で妙好人をとりあげて以降にようやく、 真宗以外に属する人々への妙好人伝受容の広がりをみせたことを考えれば当然かも しれない。たとえば、 明治16年(1883)刊の若原観堂著『真宗明治妙好人伝』には、 「かゝる真俗につけ、 行き届きたる人々なれは、身上も繁栄し家内も惇睦なれは、 近村の者まても模範とする妙好人なり。」(1)という表現がみられ、象王撰『妙好人 伝』続編巻下の結びでは、 「末世とは云ひ乍ら信心堅固の人は斯く有まほし然れば とて此に例(ならい)とにはあらねど身を仏陀に委ね志を浄刹に掛んもの斯る驗を聞 かば平常の懈怠を顧て報謝相續に力を勵まし稱名念仏の助縁とせば此また一個の妙 好人なるべし」(2)と述べられている。今日的状況としては妙好人の観光化への警告 という要素が加わり、 次のような主張のかたちをとることになる。「妙好人を讃え ることは結構なことである。併し、妙好人を信仰したり、商業化されることは、 仏 教の堕落である。 仏教の生命は法にある。人間を崇拝してはならないのである。」 (3) 次に、妙好人というカテゴリーの内実としては、 これまでいくつかの類型化が試 みられているが、その代表的なものとしてここでは鈴木宗憲(4)の分析を紹介してお こう。 鈴木は妙好人の群像を日本近代史の発展過程のなかに位置づけるという問題 関心に即して、(1)江戸幕藩体制内妙好人、(2)幕末維新型妙好人、(3)絶対主義天皇 制内妙好人、(4)近代民主主義型妙好人の4つに区分し、これらを「仏教の四恩(仏恩 ・師恩・国恩・親の恩)」への価値志向という準拠枠において特徴づけている。ここ では詳細を省くが、 大まかにいって社会的実践の契機の弱さ、 また「親の恩」を 「親様の恩」に転化することで制度的な「家」の宗教から脱出していく方向性とい った特徴が導き出されている。 ところで、こうした特徴をそなえた模範としての妙好人カテゴリーとは、 どのよ うな仕方で受容され、 維持されてきたのだろうか。いくつかの側面の課題を思いつ くままに挙げてみたい。 まず、 無学な信者の生活への注目というものを支えた思想史的要請を探る必要が あろう。 仏教における伝記編纂の伝統としては釈迦伝、宗祖伝、高僧伝に連なるも のといえるが、在俗の篤信者への注目という点でそれらとは異なっている。 また、 妙好人伝は明らかに「往生伝」の系譜に属し、 また内容的にも近接するものがある が、あくまで現世での信仰生活が問題になっている。 こうした特徴をうみ出した思 想史的要請とはいかなるものであったのか。 次に、 妙好人カテゴリーの性格が近世末から現在にかけての寺檀関係、門徒組織 の推移のなかでどう変容したかを探るうえで重要なのは、 そうした模範的人格が実 際にどのような承認・権威づけのプロセスを経てきたのか。 具体的には、説教や教 団刊行物といった寺院布教のなかでの妙好人伝の位置などが問題となるだろう。 最後に、前の二つの点と密接にからんでいるのだが、 妙好人伝は在俗の信者をと りあげたものである以上、その伝達において、伝記の生産者(教団)と受容者(在俗の 一般信徒)との一見単方向的な関係は完全ではない。この点は、新宗教における法座 ・体験談を通じた体験表出の共有化とどのような関係にあるかという問題とも結び ついてくる。 真宗にも「示談」という信仰討論の伝統があることはよく知られてお り、実際その対話的性格が明瞭に反映している大正期の信者言行録も存在する(5)。 しかしそうしたものは妙好人伝全般の典型例とはいえず、 歴史的な位置づけを要す る。 以上の三点をすべてこの短い稿でカバーすることはできず、 またさしあたって資 料も不足している。ここでは最後の点、 つまり妙好人カテゴリーの伝達のあり方な るものにどのように接近することができるのか、 浅原才市の歌を事例として考えて みたい。 2. 浅原才市における書くという営みの性格 浅原才市(6)は嘉永3年(1850)、石見国迩摩郡小浜村に生まれ、 船大工を生業とし たが、 59歳ごろから履物商店を開く。64歳ごろから、仕事中に下駄の鉋屑にかなと 当て字を交えて書き留めていた法悦の歌、地元の言葉で「口あい」を、 ノートに清 書しはじめ、昭和7年(1932)に生涯を閉じるまで、歌を書きつづけた。才市は熱心だ が無口な信者だったらしく、 師匠寺の安楽寺で朝の勤行に赴いたあとは黙々と夜ま で仕事を続けたそうである。彼と彼の歌が注目を集めるようになったのは、大正8年 (1919)、当時20歳前後で龍谷大学学生であった寺本慧達に見出され、 その歌が富士 川游の主宰する『法爾』誌上に掲載されて以降である。 その後、藤秀〓による『大 乗相応の地』(1943年)での紹介を経て、鈴木大拙の『日本的霊性』(1944年)、 『妙 好人』(1948年)でとりあげられるに至り、 没後になって世界的な注目を受けること になる。 才市が「口あい」を記したノートはもともと62〜3冊あったらしいが、複雑な事情 で多くは散逸してしまっている。楠恭の編集による『妙好人才市の歌』3巻が現存す るものの多くを翻刻しており、現在でもノートの発掘・翻刻は続いている。 さて、才市は歌を書き留め、 またそれをノートに清書するという自分の営みをど う捉えていたのだろうか。 これを明らかにするのに手がかりとなるエピソードがあ る(7)。昭和7年(1932)、寺本慧達がハワイに本願寺派の開教師として赴くさい、 才 市にノートを譲ってほしいと頼むが、 才市は「これは人に見せるものではないけ え」と言って拒んだ。しかし寺本は人に見せるのではなく、 遠い所へ行っても才市 の歌を読んで法味を味わいたいのだというと、 才市は「一人で見て、味わってくれ るのならやる」とノートを持ち出してきてくれた。これは、 才市にとって歌を書く という営みは、 不特定の人間に享受してもらうための手段ではないということを端 的に示しているようだ。 われわれは通常、 書かれたものは不特定の人間が平等にアクセスできるものだと 考えがちである(例えば新聞)。 しかし、このような享受の仕方の文化は書かれたも のの出現と同時に起こったのではなく、 口頭言語の文化と複雑に絡みあった長い歴 史を経ていることをW・J・オング(8)は豊富な事例をひきながら説いている。 それでは才市は歌を書く営みをどのように捉えていたのか。 才市自身の歌のなか でこのことに言及している箇所を拾ってみよう。 こんなさいちわかくことわやめりやゑゑた いいや こがなたのしみわありません やめらりやしません しむるまでわやみしません ほをたのしむかくもんであります まことにゆかいなたのしみであります 明ごのなせることのたのしみなむあみだぶてあります なむあみだぶつなむあみだぶつなむあみだぶつなむあみだぶつ なむあみだぶつなむあみだぶつなむあみだぶつ。 (9) 「こんな」は、「これ」と同じで呼び掛けの文句であり、 こうした自問自答の形は 才市の歌に瀕出する。 才市にとって書くことは「たのしみ」であり、「ほを(法)」 を楽しむことであり、 それは南無阿弥陀仏の六字の「明ご(名号)」のもたらす楽し みなのだという。 後段の「なむあみだぶつ」の繰り返しは、書くことの楽しみを味 わう営みそのものであろう。ちなみに「なむあみだぶつ」は、 才市の歌の根幹であ り、それは仏恩報謝の念仏(「ごをんうれしや、なむあみだぶつ」(10) )であり、そ こにおいて機と法とが一体となり(「きほをいたい、なむあみだぶつ」(11) )、慚愧 と歓喜がおとずれる(「なむわざんぎで、/あみだわくわんぎ、/ざんぎくわんぎの なむあみだぶつ。」(12) )のであった。 だが、 それではなぜ才市は始めに「書くことはやめりゃええだ」と言うのだろう か。才市はいくつかの箇所では、法悦体験の言語表出に対して否定的である。 たと えば、 わたしや、こまうたことがある。 むねに、くわんぎの、あげたとき、 これを、かくこと、できません。 なむあみだぶと、ゆうて、かけ。 (13) さいちや。みだのこころをかいてみよ。 へ。みだのこころわ、かかれませんよ。 みだのこころわ、とをときばかり。 みだのこころわ、なむあみだぶつ。 わたしや、あなたに、すくわれて、 ごをんうれしや、なむあみだぶつ。 (14) ここでは、 むしろ「なむあみだぶつ」とか言い表しようがないという点が強調され ている。さらに、こうした見方は、「あさまし、あさまし、/あさましいのも、 を そ(嘘)よ。 の。をそのかわよ。」(15)のように、玉葱の皮をむくように自己否定の 無限反復に陥る表現へと展開している。 つまり、才市にとって書くこととは法悦の体験そのものなのだが、 同時にそれが 採りうる唯一の表現は「なむあみだぶつ」でしかありえない、 というのが、書くと いう営みに対する才市の捉え方ということになろう。われわれは正直なところ、 才 市の歌を見ると、 おびただしい数の「なむあみだぶつ」の羅列にショックを受け、 困惑し、 より独創的な表現をその隙間に見出そうとするのではないだろうか。 だ が、書くという営みという次元からみた場合、 むしろこうした定型句の羅列の必然 性がみえ、さらにそれに積極的に接近することができるだろう。 3. まとめ はじめの問題にかえって、 これまで浅原才市が模範としての妙好人カテゴリーに 位置づけられてきた次元を考えてみたい。 それはとりもなおさず鈴木大拙によって 「霊性的自覚」の情的な純粋なあらわれという解釈を通じて共有されてきたのであ る。 「霊性的自覚」は個人の体験においてのみ成立するので、個人が自ら書き記し た詩文はそうした解釈にうってつけでもあった。しかし、 才市の「書く」という営 みそのものに即してみることで、 念仏者としての模範像の構成に至る別の可能性を 見出すことができた。 もちろん本稿で示した読みはあくまで「可能性」であって、 従来の読みの枠組を取り払うためのものでしかない。 注 (1) 柏原祐泉編『真宗史料集成』第11巻、同朋舎、1975年、694頁。 (2) 『妙好人伝』永田文昌堂、1958年、360--361頁。 (3) 高木雪雄『才市同行 才市の生涯と周縁の人々』永田文昌堂、1991年、「はじめ に」4--5頁。 (4) 鈴木宗憲『日本の近代化と「恩」の思想』法律文化社、1964年。 (5) 拙稿「妙好人伝編纂史再考—大正期真宗信者言行録を手がかりにして—」『東 京大学宗教学年報』XI、(未刊)、参照。 (6) 浅原才市の生涯に関する記述は高木前掲書に依っている。 (7) 楠恭「寺本慧達氏を訪う」鈴木大拙『妙好人』(第2版)法蔵館、 1976年、 215 頁。 (8) W-J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳、藤原書 店、1991年。 (9) 楠恭編『定本 妙好人才市の歌』法蔵館、1988年、3巻249頁。 (10)同書、1巻56頁ほか。 (11)同書同頁ほか。 (12)同書2巻238頁。 (13)同書1巻97頁。 (14)同書1巻98頁。 (15)同書1巻184頁。