1997年1月25日(土)@東京学芸大学
今回は「シリーズ『ナショナリズムと宗教』の問題圈 Vol.1」と題してテーマ・発題者の設定が行われた。ポストコロニアル文化批評、カルチュラル・スタディーズなどの立場からのナショナリズム研究の成果が次々に公表されている学問状況の中、近代日本のナショナリズムと宗教の関係を改めて問い直そう、というのが、今回のテーマ設定の主旨である。なお、本テーマは、当初、本年度の「宗教と社会」学会・学術大会でのワークショップ企画として発案されたものだが、批評の会ではワークショップへの参加を見送ったため、今後月例会を通じて本テーマに関する議論を深めていくことになった。以下に二氏による発題およびそれを受けてなされた討論の模様の概略を記載する。
都市社会学を専攻する桃原氏の発題は、「日本」の大都市における〈沖縄コミュニティ〉の歴史的な形成過程の分析の報告である。沖縄出身者の集住地域である川崎(とくに中島地区と小田・浅田地区)において、どのように〈沖縄コミュニティ〉並びに「沖縄人」が形成されてきたのかが報告された。
都市社会学では、これまで都市の社会関係の規定において、「擬制村」(第二のムラ)のようなムラ<共同体>の議論が前提とされてきた。そこでは、同郷者結合が第二のムラの自然発生として把握され、同郷者間の<内部>的に完結したものとして説明されてきた。つまり都市の社会関係の規定として、<異質多様な住民>たる<外部>との相互作用という視点を欠落させてきたことを、桃原氏は指摘する(「日本」「日本人」に対する<外部>としての「朝鮮人」「沖縄人」、そのコミュニティ)。ここで桃原氏は、同郷者結合は、都市という環境がつくり出す<外部>世界との相互作用によって、都市社会独自の<新たな同郷者結合(結びあうかたち)>あるいは<新たな共同性(コミュニティ)>を生みだしていると、主張する。とくに「日常的実践」という概念を援用し、沖縄の同郷者の日常的実践を通じて、〈沖縄コミュニティ〉が形成されてきた、と説明する。また、「沖縄人」などのエスニック・グループのカテゴリーは、人種や文化的背景といった民族的属性により設定される客観的カテゴリーではなく、<外部>との相互作用で付与される主観的カテゴリーであることが強調された。
以上を踏まえて、1920年代から現在に至る川崎の〈沖縄コミュニティ〉の形成過程が報告された。特に桃原氏は、日常的実践としての<沖縄芸能>(唄、踊りや三線など)に着目し、民謡・舞踊道場、郷土料理店などの芸能拠点などを通じて、「沖縄」が共有され、その日常的実践が都市で創作された、集合心性としての<沖縄芸能>を形成していることが説明した。そして最後に、今後の課題として重層的な都市社会構造の把握が提示された。
討論では、カテゴリーの問題(カテゴリーの客観性と何か、「日本人カテゴリー」を所与の前提としていいのか)、「沖縄人」のエートスはあるのか、川崎の〈沖縄コミュニティ〉においては、新宗教への関わり(宗教行動との関わり)はないのか、歴史過程の分析において世代間や時代間の違いはないのか(1920年代の沖縄出身の工場の女工たちと1950年代の地域リーダーたちとの<沖縄芸能>への関わりには違いがあるのではないか)、コミュニティ概念と地域性との関係についてはどうなのか、等々が議論された。
以上、桃原氏の発題は、今回のテーマであるナショナリズムをめぐる議論に極めて刺激的な問題を提示したものであると考える。川崎の〈沖縄コミュニティ〉の形成過程の報告を通じて、「日本」社会並びに「日本人」の内部性/外部性、同一性/差異性の問題が鮮やかに対象化された。「日本」、「日本人」の差異を巡る問題は、今後も追及していく必要があるであろう。
近代日本ナショナリズムと天皇制を研究テーマとしている粟津氏の発題は、明治期の戦病没者記念碑建設の展開過程の検討を通じて、ナショナリズムの生成過程の一端を考察し、近代日本ナショナリズムの特徴を検討しようとするものであった。粟津氏は、ナショナリズムを、ベネディクト・アンダーソンのいうような、西洋に起源を持つ時間と空間に関する特殊な観念であり、完成されたひとつの思想体系ではなく、論理的であるよりもむしろ情緒的・感情的なものである、と規定することから本発題を始める。「死を引き受けさせる」情緒性の解明は、いまだ不充分であることを指摘した上で、戊辰・西南・日清・日露戦争を通じての大量の戦没者の存在が、ナショナリズムの生成過程においてどのような意味を持っていたのかが、埼玉県の戦病没者記念碑建設に関する膨大な資料(埼玉県公文書館所蔵の『埼玉県行政文書』)の丹念な読み込みによる分析によって示された。
戦病没者碑(当初は個人碑として出現し、日露戦争後に忠魂碑という名称が一般化した。)の「建設願」には、ナショナリズムの生成期である明治期の民衆の意識の一端が明瞭に現れている、と粟津氏は指摘する。以下、戦病没者記念碑の通時的な建設過程が、内務省を頂点とする当局の対応と併せて報告された。
まず、招魂社の建設に見られる戦没者の慰霊が「国事殉難者」に対する招魂祭に始まり、招魂の観念が御霊信仰・招魂、タマヨビ・タマヨバイ・平田派の復古神道の宗教性などに起源を持つことが確認され、明治期の招魂祭が、明治政府の戦死者のみを慰霊・顕彰へと変容したことが指摘された。明治12年、『埼玉県行政文書』に「招魂碑」の建設願がはじめて登場する。以降、碑(紀念碑)の建設規定が整えられていくが、その碑建設の対象は当初は個人碑であり、国家への貢献者、戦没者であった。日清戦争戦病没者碑の建設が、建設願を提出する民衆側は宗教的な意味で捉えているのに対し、内務省側は宗教性を排除することを指示していることが確認された。さらに、日露戦争を通じて、碑建設の出願が標準化されていった過程が確認された。以上を通じて、戦病没者碑は招魂碑・個人碑として始まり、それが当局によって規制・標準化されていく中で、紀念碑、忠魂碑となっていったこと、内務省は一貫して非宗教的な態度を堅持したこと、碑の建設は死者の合祀であり、慰霊招魂でなく、国家と国家に対する忠誠・永遠の顕彰という独特な観念を表象しなくてはならないものとされていたことが指摘された。
そして結論部では、「表象としての戦病没者碑」というキー概念が提示された。それは、戦没者碑が家族国家観をイメージする具体的な材料・表象のひとつであり、その形式的合理性(紀念碑の合理的配置・合祀や合同慰霊祭は新しい共同体の可視化・禁止ではなく許可制・宗教の上位に国家を置くこと)と排他性(民衆の招魂観との位相のズレ・依代としての戦病没者碑・民俗的な霊魂観や祖霊観に国家的な要素を滑り込ませること・「家永続の願い」から「国家永続の願い」への変容)が指摘された。
最後に今後の課題として、1930年代の変化や他国との比較などが示唆された。
討論では、合祀の具体例を知りたい、戦病没者碑建設の担い手の問題や民衆の招魂観との位相のズレ(招魂・霊魂の扱いに関する民俗システム)の問題を、公的な資料から読み込むには限界があるのではないか、情緒的・感情的なネーション概念に対して、人格的なネーション概念もあるのではないか、などの論点を巡り、議論がなされた。
安丸良夫やT・フジタニなどの天皇制を巡る近年の論考では、国家の公的文化と民衆文化との関係が重要な論点を形成している。近代日本のナショナリズムの形成過程においては、国家の公的文化への民衆文化の統合が問題となるが、粟津氏の発題を受けて、次回以降は民衆文化の側からのナショナリズム生成過程への参与/あるいは反発の具体的なありようを考えていく必要があるものと考える。
以上、両発題共に、ナショナリズムを巡る諸問題を、具体的な事例を通じて提起するものであった。今後も本テーマに関する報告・討論等を断続的に行っていく予定である。発表希望者は、粟津氏 <kawazu@essex.ac.uk> か大谷氏 <GEH10146@niftyserve.or.jp> まで連絡をしてほしい、とのことである。
1997年3月8日(土)@東洋大学
本発表は、これまで菊池氏が行ってきた真如苑の弁論大会を事例とする自己物語論についての研究発表を、さらに発展させた意欲的な内容であった。菊池氏は、自己物語による自己構成においては、他者の存在が不可欠で、とくに他者の信憑/評価を得ることで「私」は構成されるという観点から、その他者との関係性を「信頼のネットワーク」という概念を導入することで明らかにしようとした。
討論では「信頼」や「ネットワーク」の内容、「視線の二重化」(菊池氏と芳賀学氏のオリジナルによる、眼前の他者の向こうに霊界という絶対的な他者を見るという「私」の視線)という概念などをめぐって、活発な議論がなされた。
宮野氏の発題は書評であった。習俗の基底を問う基礎法学の一潮流であり、人類学プロパーでない学者による「人類学」書である本書について、宮野氏は、丸山圭三郎や山田慶児の議論などを援用しながら、本書に対する氏の見解を提示した。
もう少し厳密な議論を著者に期待したい、というのが宮野氏並びに他の参加者の大方の意見であった。
1997年4月19日(土)@上智大学
去る4月19日、上智大学四谷キャンパスにおきまして、昨年に引き続き『第2回修士論文発表会』が行われた。昨年同様多数の方々が参加され、盛況のうちに会は終了した。 第1部では、4名の発表者からそれぞれ以下のような発表がなされた。前田俊一郎氏(成城大学)の「両墓制の再検討―近代に視座をおく両墓制論」は、フィールドワークによって、過去の両墓制研究に批判的な再検討を試みたものであった。とりわけ近代以降(明治維新以降)の両墓制の成立・展開に着目し、これまで民俗学を中心に行われてきた両墓制論に再検討を促す興味深い発表であった。小島伸之氏(東洋大学)の「明治国家における法と宗教をめぐる一考察―明治32年宗教法案を素材に」では、法学の立場から、元来国家神道を除く宗教教団に対する統制法としての意味を強調されてきた明治国家における宗教法は、同時に、信教の自由を保障し制度化するという側面をもっていたのだ、という解釈が提示された。阿部友紀氏(大正大学)の「『デュルケムの宗教論』について―デュルケム宗教論をとおしてみた「社会」と「道徳」」では、E. デュルケムのライフヒストリーを再構成することにより、彼の業績を貫いているその人間主義的な精神が指摘された。福重清氏(東京都立大学)の「物語としての〈問題〉経験―アダルト・チルドレンとその自助グループの活動を例に」では、アダルト・チルドレンのセルフヘルプ・グループへの参与的な観察を通して、生きられた経験としてのオルタナティブな物語が語られることによって、参加者に回復がもたらされているのではないか、という指摘がなされた。
第2部では、1部の発表を受けての総括討論が行われた。全体的に活発な討論がなされたが、討論が福重氏の発題に関するものに集中してしまい、時間の関係上他の3者をめぐる十分な討論が行えなかったという点で、必ずしも満足のいくものではなかったように思われる。そもそも内容的にかなりのバラツキのある発題について総括的な討論を行うべきであったかという点も、来年度以降行われる修論発表会への教訓となった。しかしながら、いくつかの課題も残したとはいえ、当会において一般には宗教とはみなされていない現象に関する発表が昨年(小池靖氏によるアムウェイ研究)に引き続いてなされた点で、現在の宗教研究が孕んでいる問題点、あるいは研究者の興味関心がそういった「宗教」ライクな構造を持つ社会・文化事象に傾斜していることが顕在化したという意味で、ある意味では意義のある議論が展開されたのではないかと思われる。宗教研究以外においても、インテンシヴで内在的な現象理解が重視されてきている現代において、我々次世代の宗教研究者に対して課せられている課題を再確認する必要を感じさせられたのではないか、と考えます。
以上の通り、第2回の修論発表会も無事終わることが出来た。そこで本会では来年はより多くのそしてより多様な発表が行われるためにも、広く発表者を募ろうと考えている。自薦、他薦を問わず発表者を随時募集しているので、当会までお知らせを。最後に、興味深い発題を行ってくださった発表者の皆様、および多忙中も関わらず出席され、積極的に討論に参加いただいた方々には、改めて感謝の意を表したい。
昨年行われた「宗教と社会」学会・第4回学術大会における当会主催のワークショップ「1980年代・宗教研究を読みなおす−ポスト「宗社研」の課題と展望−」の議事録が本年3月に『宗教と社会』別冊として予定通り公刊されました。当日参加出来なかった皆様をはじめとして、参加された方々も是非ご一読下さい。
また、本年度の「宗教と社会」学会・第5回学術大会は6月14、15日に東洋大学白山校舎で開催されます。15日には昨年同様、(1)宗教とジェンダー、(2)「精神世界」の構図−現代社会と現代人の意識を理解する手がかりとして−(仮題)、(3)東アジア世界における民俗宗教の持続と変容、というタイトルの3つのワークショップが行われる模様です。皆様こぞって参加しましょう。
なお、前号で『読書会』プロジェクトが発足し、「Talal Asadの論文が取り上げられた」、という記述がありましたがこれはまだ行われていません。訂正いたします。
今回は編者はほとんどテクストを作成しておりません。大谷さん、菊池さんどうもご苦労様です。文体の統一、その他の改変を行っていますが、悪しからずご了承下さい。事後的ですが。(H.S. @幕張新都心)。