第11回 1996年4月27日(土) @東洋大学
(1)研究報告:生長の家練成会における「癒し」のダイナミズム
報告者:冨永健太郎氏(筑波大学大学院)
経過:報告では「生長の家練成会」の事例が取り上げられ、宗教現象学の視点に 立った新宗教研究、すなわちこれまでの特に宗教社会学における新宗教研究が 看過しがちであった「聖なるものを媒介とした信者主体の創造性」を重視した 研究がなされるべきで はないか、ということが述べられました。宗教学あるいは宗教現象学と宗教社会 学の方法論的対立は以前から本会でも問題にされてきましたが、幾分社会学的な アプローチからの報告が多い中でこのような報告が行われ、宗教現象学的な視点 の共有化が図られたことは、意義深いことであると考えます。同時にまた、この 問題は今後議論すべき大きなテーマにもなり得るものです。
(2)「宗教と社会」学会・ワークショップ準備討論#4:教えと思想
報告者:黒崎浩行氏(東京外国語大学A.A.研)
経過:報告では宗社研(宗教社会学研究会)のメンバーであった島薗進と対馬路人 によって行われた、新宗教研究の中でも特に「新宗教がそれ自体として有してい る独自の救済観・宇宙観を解明する」ものとしての「教え」研究の回顧的な整理 が行われ、その方法論の中核である「生命主義的救済観」や「内在的理解」をめ ぐる考察がなされました。討論では演題にあるが報告では余り触れられなかった 「思想」と「教え」の関係が問われ、「教え」の持つ教義・実践の両面性が抽出 されてきました。
第12回 1996年5月25日(土) @東洋大学
(1)研究報告:宗教研究における「調査」の問題
報告者:川又俊則氏(成城大学大学院)
経過:報告では宗教調査の持つ問題点が倫理、研究態度、方法、理論の四つの観 点から論じられ、続いて再調査の必要性・重要性及び調査法としてのGT(Grounde d Theory)法の導入が提唱されました。討論ではGT法の長短所や運用法について の質問が頻発しました。
(2)「宗教と社会」学会・ワークショップ準備討論#5:最終討論
6月に愛知学院大学にて行われた、「宗教と社会」学会・学術大会でのワーク ショップ(1-3節を参照のこと。)に向けての報告者のリハーサルも兼ねた最終 討論が行われました。ワークショップ当日司会を務めて頂いた芳賀学氏(上智 大学)も交えての議論はこれまでになく白熱したものであったと思います。以 下、経過などを簡単に示します。
a:宗教運動(大谷榮一氏・東洋大学大学院)
経過:報告者の一身上の都合により発表は延期され、6/5に報告者と芳賀氏とのミ ーティングの席上で行われました。報告では宗教運動論研究の整理、社会運動論 と宗教運動論の関係の明示、問題提起としての構築主義的アプローチの可能性の 提示などが行われました。討論では特に構築主義的アプローチの持つインパクト や斬新さが問い直されました。
b:「教え」研究の位相(黒崎浩行氏・東京外国語大学A.A.研)
経過:報告ではまず黒崎氏自身の宗社研との関わりが語られ、宗社研が「思想」ではなく「教え」という言葉を用いたことの意味の問い直しから、「教え」研究の回顧及 び方法論としての「内在的理解」をめぐる考察が行われ、最後にやや大きな視点 から黒崎氏の研究テーマである妙好人伝研究との関連で宗社研の持っていた「経 験パラダイム」の再検討の必要性が述べられました。討論では宗社研が基本的前 提としていたと考えられる宗教経験の幾分アプリオリな措定とその重視、及びそ れに対するアプローチとしての「内在的理解」をめぐっての議論が行われました。
c:宗教と「語り」―信者間の相互作用をめぐって―(菊池裕生氏・上智大学大学院)
経過:報告ではこれまでの新宗教研究が見落としがちであったものの一つとして の信者間の相互作用を明らかにすべく、「新宗教の受容と態度変容」を「信者と しての自己」の構成/維持の問題として扱うこと、及びそのように自己を構成/維 持するものとしての「語り」というインタラクションとそれの持つリフレキシヴ ィティに注目することが述べられました。討論では精神分析や家族療法との関係 性や、そのように構成/維持される「自己」とはそもそも何であるかという哲学 的な問いかけがなされました。
d:宗教と女性―シャーマニズムとフェミニズムの交錯―(平山眞氏・東洋大学大学院)
経過:報告では研究や学問の必然的に孕んでしまう政治性というアポリアが提示 され、シャーマニズムや女性の霊力をめぐる議論の多くが、フェミニズムの視点 から見ればかなり恣意的な研究者自身のジェンダー・アイデンティティの投影に 過ぎないか、あるいは性差別を意識的あるいは無意識的に隠蔽するものであるの ではないかという事が述べられました。討論では特に報告者の立場や意識の持ち 方が問われました。
以下に、第2号に掲載できなかった2名の発表内容の要約・討議概略を掲載します。
(1)「家族の不連続化と墓の継承―新潟県西蒲原郡M寺の檀家調査を中心に―」
報告者:井上治代氏(東洋大学)
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概要:現代日本における墓の形態の多くは家族墓で、代々継承者を決めて永続的 に使用していく継承システムをとっている。これらは、墓は「家族で入る」もの 家族は「連続する」ものという「永続性」が前提にあって成り立ている。それは かつての直系制家族であるところの家がもつ特徴でもある。
ところが戦後、直系制家族の存続基盤は大きく変容した。夫婦制家族の理念が根 づいた典型的な現代家族は、かつての日本の家制度のもとで見られたような、家 の永続性を必然とする意識が希薄になった。つまり超世代的に一つの地域に存続 しようと努めたり、家系の存続を強く求めてメンバーを養子で補充することもあ まり一般的ではなくなった。夫婦家族一代を中心にして双系の先祖を想定するよ うにさえなっている。
そしてなによりも家族のライフサイクルからいって、夫婦制家族は一代限りで消 滅する「不連続」の家族であるところに、直系制家族の基本的要件である世代的 継承に基づく「連続性」を基本とした祖先祭祀ー墓や仏壇の継承ーが夫婦家族と の整合性を欠き、墓の継承問題など今日的な問題として浮かび上がってきている ことは事実である。
筆者は、家族の実態をとらえるのにより効果的な尺度として家族の「連続性」を 用い、家族と祭祀の「継承」をもって考察することにした。特に本研究は、産業 化による人口移動などを範疇に入れながら直系制家族の基本的要件である世代的 継承に着目し、現代日本における直系家族の変質とそれに伴う墓の変容のダイナ ミズムにせまろうとするものである。
調査地は農・漁村地帯の伝統的な家族や墓が存在する新潟県西蒲原郡巻町角田浜 とし、その中で継承者を必要としない新たな形態の合祀墓「安穏廟」を有した妙 光寺の檀家を調査対象とした。妙光寺の檀家のなかでも正式な檀家名簿が現存す る 1921(大正10) 年時の檀家に焦点を当て、 1995(平成7)年までのタイムスパン の中で3世代あるいは4世代が家や墓をどう継承したか、また伝統的な祭祀継承や 寺墓地から、何を契機に継承者を必要としない合祀墓である「安穏廟」に移行し て行ったのか、直系制家族が産業化や都市化といった社会変動によって変質する なかで人々の意識や家族の変化を通じて墓をめぐる状況の変化を検証した。
1921年 (大正10) 以降、調査地に住む家族の約4-5 割が養子縁組を1回以上経験 していることがわかった。しかし、このようにして存続してきた直系制家族であ るが、戦後の民法改正による夫婦制家族理念の浸透や産業化、都市化を経て、そ の実態が変質しつつあることもわかった。婿養子を迎えた家では、農家であって もすでに「家業の継承」を条件とはしていなかったり、かつての家的性格を完全 に備えた直系制家族は減少の一途をたどっている。また配偶者が確保できていな い家や次代の継嗣がいない家では、養子縁組をしてまで家族の連続性を維持する 時代ではないという認識が子の世代を中心に広がっていることがわかった。さら に継承者を必要としない合祀墓には、直系制家族のライフサイクル(世代的循環 構造)から逸脱して夫婦制家族への移行が見られた。このように本調査によって、 調査地の直系制家族の変質が明らかになり、時間の経過とともに夫婦制家族へ移 行する傾向のあることも予測できた。
討議:報告中で用いられた「檀家」及び「合祀墓」という語彙をめぐって若干の 議論が行われました。編者はこれは「議論のための議論」であり、「瑣末」かつ 「不毛」な議論であると考えます。本来ならば主題に即した議論、つまり「家族」 という語彙あるいは概念についての議論、あるいはまた「家族の不連続化」と、 日本の「近代化」や社会学や人類学が明らかにしてきた「東北型」と「西南型」 という社会構造、あるいはそれに付随しての「祖先祭祀」を含む宗教構造の根本 的相違との関係性などについて論じられるべきだったと思います。
(5)「アムウェイの宗教社会学」
報告者:小池 靖氏(東京大学)
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概要:近年、日本でも飛躍的な成長を遂げ、130万組の会員を獲得した無店舗販売 の大手、アムウェイは宗教のようであるとよく言われる。アムウェイが人々を組 織に加入させ国じゅうに広がっていく仕方は、宗教団体が同じことをするのに非 常に似ている。宗教団体もアムウェイも、他のメンバーとの密接な交わりを提供 する。どちらのメンバーも本やテープを通じて、グループの「哲学」を学ぶこと を奨励される。どちらのグループも定期的な儀式や大会がある。しかし何よりも 重要なのは、ともに熱心な参加者の成功例を見せることによって(現世的な)幸福 を説くということ、そしていったん組織にコミットしてしまえば、メンバーにと っては「自分たち以外の世界(the rest of the world)」にいる人々を新たに勧 誘することが「使命(mission)」になるということである。
近代において宗教は世俗化・個人化・分化していると言われる。しかし「ニュー エイジ宗教」のような、様々な宗教的セラピー、心理療法的なグループ、自己啓 発(能力開発)セミナーなどが現れてきている。これらの多くは、成員にアイデン ティティーの変容を促すという点で、アイデンティティー変容組織 = Identity Transformation Organization (ITO)と規定できる [Greil & Rudy, 1984]。ITO は、成員を物理的、社会的、イデオロギー的に外部から遮断(カプセル化)して、 新しいリファレンスグループとの密接な相互作用のもとに置く。
この研究の目的は、(1)アムウェイ・ネットワークの特徴を、共同性、自己変革( Identity Transformation)、カリスマ性、社会との緊張関係に注目して記述し、 (2)その中でも特に自己変革の側面を、近代のヒューマン・ポテンシャル・ムー ブメントに端を発する一連の自己変革の運動群(例:自己啓発セミナー)と比較し 位置づけ、(3)それらを通して、現代においてアムウェイのような組織がでてく る意味・背景を、ビューロクラシーや、近代における公的領域と私的領域の分離 の問題と関連づけて考察すること、の3点である。
討議:「疑似宗教」という発表会の案内で用いられたタームについて、あるいは 「宗教性」をめぐっての議論が行われ、逆に「霊感商法」などは宗教の仮面をか ぶった「疑似企業」とすらいえるのではないか、という過激な意見も提案されま した。また、こうした事例と、例えばM.ヴェーバーの「プロ倫」との関係性に関 しての議論が行われました。もちろんアムウェイは「プロ倫」とは正反対の図式 ではありますが、20世紀の起業家達が「プロ倫」を参考にしつつ企業経営を行っ てきたことは事実としてあると思われます。さらにはマルクスからドゥルーズ+ ガタリあるいはボードリヤールに至る西欧の思想的系譜の中で問題にされてきた 「資本主義」の全世界的浸透プロセスという大きな問題とも結びつくことが指摘 されました。
*注:報告者の所属は平成7年度のものです。
去る6月15-16日に愛知学院大学に於いて行われた「宗教と社会」学会・第4回学 術大会の第2日目に、当会主催のワークショップ「1980年代・宗教研究を読みな おす-ポスト「宗社研」の課題と展望-」が開かれました。午前10時から昼休みを 挟んで午後5時まで、約30人の参加のもとに白熱した議論が展開されました。そ の模様は何らかの形で出版されるという話もあるので、ここではほんの概略のみ を記載するにとどめます。報告内容は1-1に示したものをほぼ踏襲しています。
第1部
司会:芳賀学氏(上智大学)(なお第2、第3部も同氏の司会による。)
報告1:宗教運動―「宗教運動論」の「構築主義的アプローチ」―
報告者:大谷榮一氏(東洋大学大学院)
コメント:対馬路人氏(関西学院大学)・竹沢尚一郎氏(九州大学)
報告2:「教え」研究の位相
報告者:黒崎浩行氏(東京外国語大学A.A.研)
コメント:対馬路人氏・竹沢尚一郎氏
第2部
報告3:宗教と「語り」―信者間の相互作用とその過程をめぐって―
報告者:菊池裕生氏(上智大学大学院)
コメント:竹沢尚一郎氏・池上良正氏(筑波大学)
報告4:宗教と女性―シャーマニズムとフェミニズムの交錯―
報告者:平山眞氏(東洋大学大学院)
コメント:池上良正氏・対馬路人氏
第3部
自由討議
批評の会ではインターネットを情報交換・研究活動に積極的に活用すべく、 「批評の会メーリングリスト」(hihyonokai@ml.aa.tufs.ac.jp)と 「批評の会ホームページ」(http://www.st.rim.or.jp/~noir/hihyonokai/)を開設しました。会員でメーリングリストに参加をご希望の方は、
とだけ書いたメールを majordomo@ml.aa.tufs.ac.jp宛にお送り下さい。 参加承認後、詳しい利用方法をメールにてお知らせいたします。 インターネット活用に関するご意見・ご質問は 黒崎浩行(noir@st.rim.or.jp)までお寄せ下さい。subscribe hihyonokai end
ドラえもんについては何の説明も必要ないと思われるが、簡単にその要約を示す なら、主人公のび太は常にある社会的抑圧(ジャイアン・スネオ・ママがそれを 表象する。)を受けており、それを未来からやってきた猫型ロボットである「ド ラえもん」が救済するという物語である。実はドラえもんはかなり奥が深くて、 のび太は決して年をとらずに永遠に抑圧→解放というプロセスを毎回単調に繰り 返していくのだけではなくて、回によってはヒーローと化したり、話の発端より ひどい状況に追い込まれたりする。ここで私は「宇宙大百科事典」や1980年代半 ばに囁かれた「のび太脳死説」についても語りたいのだが、紙面の都合上止めて おく。あたかも「水戸黄門」のように、あるいは「小津映画」のように同じ物語 が単調に繰り返される。私はこれを後に行うドラゴンボールとの比較を視野に入 れつつ単純にミニマリズムとは呼ばずに、ミニマルなミニマリズムと呼ぶことに しよう。そして、これはまさしくハイデッガー的な世界の在り方、つまりは叙事 詩的ファシズムの顕現とでも呼びうるものであろう。
ドラゴンボールについても詳細を示すのは差し控えるが、昨年まで『少年ジャン プ』に連載され、今なおCX系で放映され続けているその物語を簡単に要約するな ら、主人公である孫悟空が幾度にもわたって自分より強い、あるいは強いかも知 れない敵と出会いその敵と闘い乗り越えていくという物語である。そこには善/ 悪という単純な二分法と、敢えて言うならヘーゲル的な弁証法的乗り越え=止揚 という図式が見出される(勿論、孫悟空はあくまで善を代表し最終的には勝って しまうので正確にはヘーゲル的意味での止揚とはいえない。)。これを私は一応 ミニマルでないミニマリズムと呼ぼう。
結局のところ、ドラえもんもドラゴンボールもミニマリズムである。そこにある 差異は単に無限の上昇を無邪気に信じるか、あるいは初めからある種の諦念をも って現状を無限に繰り返すか、ということだけである。ドラゴンボールのミニマ リズムについてはもう一言必要かも知れない。この作品の依拠している『西遊記』 に出てくる言葉を思い出してほしい。つまり「全てはお釈迦様の手の内のこと」 なのだ。もう一つ、ここではドラえもんがヨーロッパで全く受けなかったらしい こと、及びドラゴンボールが現在大受けしていることも付け加えておこう。
さて、我々はこうしたあらゆる場所に現れてくるミニマリズムを乗り越えられな いのだろうか。連作とはそれ自体ある意味でミニマリズムへの没入という危険性 を孕んでいる訳だが、ここではその危険を承知の上で、自己言及的に前号のエッセイに遡及してみよう。前号のエッセイを書いて下さった宮野氏の音楽ユニット 「マテリアリズム」の音楽は、シーケンシャルでミニマルな音の反復にノイズ= 偶然という要素を付け加える。ここで行われていることは以上に述べたようなミ ニマリズムからの乗り越えの追求であると私は考える。もっと簡単に言えば、こ れはミニマリズム=モダニズム(物凄い単純化!)と袂を分かとうとするポストモダ ンと呼ばれる立場に他ならないと考える。
実は2HDはフロッピー・ディスクの容量を示す記号であり、FDDはフロッピー・デ ィスク・ドライヴの頭文字を繋げたものである。そして、2HDのフロッピーはFDD に入れることで初めて機能する。さて、FDDはもう1つの意味を持っている。もう お気づきだろうが、これはポストモダンという思想的磁場の形成に少なからず寄 与した3人の思想家の頭文字を繋げたものであり、蓮實重彦の著作のタイトルで もある。すなわち『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』。(1996/5/10入稿)
疾風怒濤のワークショップを挟んでのここ一月ばかりで、この会の連絡その他の 電子化が急ピッチで進行し、なんとホームページまで開設されました。黒崎さん ご苦労様です。皆様のアクセスをお待ちいたしております。何となく私の名前が 目立ちすぎているような気がするけれど、次号あたりから誰かやってくれません か?それとも部分的に誰かが書いてくれて私にメイルで入稿してくれればあっと いう間に出来てしまうのですが。
さて、私は明日からまたまたフィールド・ワークに出ます。今回は山登りです。 この夏は森敦の世界に入り込む積もりです。皆様、よい夏休みを。(1996/7/13 明日は巴里祭か。H,S.)