自由

(2017-03-21)

さっき読み終えた鈴木大拙『禅のつれづれ』(1966年の死後まもなく刊行された『大拙つれづれ草』の、大拙没後50年を迎えて今年再刊された本。河出書房新社刊)のなかに、D.H.ローレンスの文章からの訳文として、次のような一節が引用されている。

「人間は自らの故郷と思うところにいま現に生きているとき、人間は本当に自由を享有している。本来の古里を離れて、放浪的生活をしているときには、いずれも自由を持っていない。宗教的信念からする何か深い、内からのみわき出る声に、耳を傾けているとき、彼らは自由だ。何か、生きていて信念に充実した有機体の中に行動しているときに、彼らは自由である。行動の目的には、まだ到達しておらず、これを現実化せんとして、夢中になっているときに、人間は自由である。云々」(99ページ)

3つの「自由」が記されているのだが、このうちの2つについて、相馬の真宗移民を描いた青原さとし監督の映画『土徳流離』と、柳美里の小説『JR上野駅公園口』を連想した。

ちょうど、『仏教タイムス』の3月16・23日合併号の1面に、青原さとし監督の署名記事が掲載されている。

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